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🌟まずは武豊·岡部幸雄さんについて

落馬により騎手生命を絶たれた日本競馬会歴代最強の天才福永洋一騎手と騎手生命のみならず「生命」を絶たれた若き天才候補であった岡潤一郎騎手について最後の方でご紹介します。


まずは武豊騎手と岡部幸雄騎手のお話から始めます。90年代の名実共に東西ジョッキーの頂点に君臨した武豊·岡部幸雄騎手(以降敬称略)ですが全く違うタイプの名手です。

武豊はどちらかというと「天性の感覚」岡部幸雄は「徹底した競馬理論のどん欲なまでの会得、経験による彼独自のエビデンス」に基づく騎乗という点です。

彼ら2人の主な主戦騎乗馬を見るだけでもその違いがにじみ出てきます。

そして武豊には岡部にはない「コネ」という武器もありました。これはどの世界でも同じですが、競馬サークルにおいては比べものにならない程、有利に働きます。

実際、武豊はデビュー時より多くの名馬の騎乗チャンスに恵まれ、そして天才ぶりを発揮し、結果を残す事ができました。しかし当然武豊の天才的能力がなければここまでの地位を築くことは、当たり前ですができません。

ただし岡部と比較してだけではなく後述する田原成貴、福永洋一よりもかなり恵まれていたのは間違いありません。

✨シンボリルドルフが競馬を教えてくれた··岡部が語る

苦労人、岡部幸雄は、たまたまあの皇帝「シンボリルドルフ」の騎乗機会に恵まれます。当時の彼はそこまでの名騎手とはいえませんでした。

有名な話としてシンボリルドルフのダービーでの彼の回顧録があります。まずは1984年シンボリルドルフのダービーをご紹介します。

「ルドルフが競馬を教えてくれた··」は名言として残ります

このダービーでの騎乗映像を見ていると、名実共に大ジョッキーとなった岡部幸雄からは想像できない姿が確認できます。

ルドルフは何となく先行馬が有利になりそうな展開の中、中段やや後方でレースを運びます。

するとあの岡部がまだまだレースの勝負所には充分距離があるにも関わらず、他騎手同様に「慌てて」ルドルフの手綱をしごき、焦って先行集団に取り付こうとします。これは騎手として普通です。

しかし後に岡部が語るには「ルドルフは岡部がペースを上げろ(サラブレッドは育成段階で騎手の指示に従うよう調教されていることは既に述べた通りです)と送った手綱を動かす合図」に従わなかったそうです。

結局、僕が見てても「ルドルフ届くかなぁ」と感じる直線入口でしたが、ご覧の通りルドルフは涼しげに直線抜け出しあっさりダービー制覇しました。

ルドルフは岡部よりも何処でどう動くのが一番良いかよくわかっていたとても賢いサラブレッドだった様です。

こんな経験を岡部は教訓としてしっかり学び、自身も競馬理論について必死に研究して、彼独自の騎乗理論を確固たるものとしリーディングジョッキーになったのです。

🐴田原成貴:競馬界から追放された天才!

しかしもう一人、田原成貴という騎手がいました。彼については恐らくみな良い印象はないと思います。しかし彼は僕個人的には武豊に勝るとも劣らぬ天才ジョッキーだったと思います。

彼自身「コネ」どころか、生まれた家庭自体も競馬界とは無縁であったと思います。そんな中、武豊よりも早く「天才」との評価を得ていたんです。

しかし彼には大きな2つの問題がありました。一つは彼自身のマスコミ不信からきたとも言われる「素行の悪さ」による競馬界からの不評。そして最も大きかったのが「落馬による大怪我」です。

落馬でとても辛い入院生活を余儀なくされた田原成貴は以前の様な思い切った「天才的」な騎乗がしづらくなり、自ら騎乗数も抑えていたらしいです。余程辛く怖い経験だったのでしょう。

しかしその後も彼の才能を感じさせるレースは大舞台で要所要所に見て取れます。95·96年と2年連続人気薄の桜花賞の栄冠を勝ち取ったのも偶然ではないと思います。このレースをどうぞ!

ワンダーパフュームが桜花賞馬に!
ファイトガリバーが桜花賞馬に!

トウカイテイオーの有馬記念での復活騎乗も、そんな中でやり遂げたものだったんです。その後も特に1997年の天皇賞・春でのマヤノトップガンの凄まじい騎乗を見せはするものの、リーディングジョッキーランキングトップなどには、とても遠い存在でした。

✨三人に共通する美しい騎乗姿

この三者三様の彼らにも共通しているのは「美しい騎乗フォーム」です。

単に美しいだけではありません。このフォームは走る馬にとっても負担が少く、しっかり実力が出せる事を追求した結果のフォームです。

特に田原成貴は現在、東京スポーツ紙にて活躍の場を得ているので、彼の「競馬論」について色々傾聴すると、とてもためになると思います。

田原成貴にあって武豊に足りない優れている事は、持って生まれた天賦の才を「自分の中の感覚だけで終わらせる事なく、きちんと論理的に第三者に説明できる」ところだと僕個人的には思います。

田原成貴は騎乗技術にあたり様々な要素のうち「バランス」を一番大事にしている様です。例えば直線追い出しにかかるときに「無我夢中になっているうちに馬の事を忘れてしまい、自分の重心が後に傾くなど論外」だと仰ってます。

自分の重心と馬のバランスの取り方がうまいと→自然と見た目も美しく見え、実際馬の能力を最大限発揮できるという事です。

今ではほとんどの若いリーディング上位の名手がこの3人に近しいフォームをしているのは彼らの影響を受けているのかもしれないですね。

彼は直線でも決してやたらめったらムチを叩き続けたりしません(競走馬は痛いからイヤイヤ速く走ろうとするという様に調教はされてません)

必要最小限の「頑張れ!もう少しの辛抱!」の合図しか出しません(口の悪い田原はやたらめったらムチを叩くいわゆる有名騎手の事を「座ぶとんじゃないんだから叩けばいいってもんじゃないでしょw」と皮肉ったりしてました)

🌟しかし上には上がいた:三人も頭が下がる本当の天才「福永洋一」

しかしその3人、いえ恐らくほぼ全てのホースマンがそう答えると思いますが、やはり日本競馬騎手史上最も天才だったのは誰か?と言われたら「福永洋一」だと思います。

名前を聞いて分かると通り、つい最近現役引退した福永「祐一」騎手のお父様です。祐一騎手は御自身の努力や才能も素晴らしかったです。

しかしやはり福永「洋一」というあまりに偉大すぎる父親の縁があってこそ、ここまでの成績が残せたというのも間違いではないでしょう。

というか逆にあまりに偉大な父の存在がプレッシャーに重くのしかかって苦しかったのではないでしょうか。

実際96年デビューの競馬学校の同期5人位いましたが、その中ですら技術はトップではありませんでした(誰がトップだったか··とい噂は多分調べれば一杯でてくると思うので割愛します)。

では福永洋一は何故、岡部(実は福永と同期)、武豊、田原成貴が活躍している1990年代にTVでその活躍を見ることが出来なかったのでしょうか?

結論から申し上げると大きな落馬事故(田原成貴の比ではない)にあったからです。1979年の毎日杯でマリージョーイに騎乗した時の事でした。

生命を落とさずに済んだのが不幸中の幸いでしたが、とても現役復帰などできる状況ではなかったんです。

🌟福永洋一の神業騎乗!

1つだけ福永洋一騎手の天才ぶりが分かる有名な皐月賞でのハードバージのレースをご覧ください。

皐月賞でのハードバージ。超有名なので見ておいて損はなし!

息子の福永祐一騎手も晩年は非常に心配させられる落馬事故に見舞わまれましたが無事に現役引退をする事ができて本当によかったです。

🐴岡潤一郎という幻の天才···競馬というものは常に走る馬も騎手も命懸け···

そして忘れてはならないのが福永洋一にはかないませんが、岡潤一郎という天才ジョッキーがいました。しかし彼に関しては非常に残念な事に落馬で生命を落としています。

彼はJRA最優秀新人賞を取ると、翌年からも勝ち星を積み重ね僅か5年余りの騎手人生で2,177戦225勝というハイアベレージな成績を残しました。

そして早くも2年目の1989年に当時は新記録となる騎乗機会5連続勝利を打ち立てます。

続く1990年には宝塚記念で武豊騎手の乗り替わりでオグリキャップに騎乗して単勝1.2倍という人気を背負う辺りから既に素質を認められていた事が判ります(結果はオサイチジョージに負けて2着となり批判を浴びますが)。

翌年にはリンデンリリーで早くもG1勝利を成し遂げることになります。

僅か享年24という若さでこの世を去りましたが無事であれば武豊騎手のライバルになっていた事は間違いないと思います。またお人柄の良さも周囲からの評価を高めていました。

なので新聞で岡騎手の不幸を知った時は物凄くショックでした···彼の最期のレースとなったのは1993年1月の新馬戦です。

オギジーニアスという素質馬で一番人気でした。さらに元々は藤田伸二騎手が騎乗予定だったのですが都合により岡騎手に乗り替わりとなった経緯があります。藤田騎手も複雑な心境で胸を痛めていると思います。

載せようか迷いましたが敢えて「岡潤一郎」という天才ジョッキーがいた事、そして人馬共に常に生命がけ、という事をしっかり胸に刻む為に彼のラストレースを追悼としてご紹介します。

彼の死に当時大きなショックを受けました···

心よりご冥福をお祈り申し上げます

騎手の安全にも目が向けられるようになってきましたが、人馬共に命懸けだということには変わらないので、これからも人馬に対し敬意を払いながらレースを見ていこうと思います。